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髪を下ろす

マリヤは十字架を前にしたイエスの足に香油を注いだだけでなく、自分の髪で主の御足を拭きました(ヨハ12:3)。彼女は一生かけて蓄えたかもしれない高価な香油のみならず自分の評判も犠牲にしました。というのは、当時、良家の女性は人前では髪を下ろさなかったのです。イエスを礼拝するためなら、何を言われても構わないと考えたのでしょう。真の礼拝は人の目を気にしません(Ⅱサム6:21-22)。

二枚の写真

友だちに写真を見せている老婦人がいました。一枚目は故郷のブルンジ共和国にいる娘の写真。二枚目はその娘に生まれた孫の写真です。けれども、孫を抱いているのは娘ではありません。出産で亡くなったのです。友だちは老婦人の頬に手をやって「分かるわよ、分かるわよ」と涙ながらに言いました。彼女もまた、二ヶ月前に息子を亡くしていました。同じ経験をした人の思いやりは特別です。その辛さを知っているのですから。

私の全て

教会の音楽には何かが欠けていると感じていた青年アイザック・ウォッツは、もっと良いものを作りなさいと父親に促され、挑戦しました。ウォッツの作品「十字架にかかりし」(聖歌158番)は、英語の賛美歌の傑作と言われ、多くの言語に翻訳されています。

「主の頭、主の手、主の足から悲しみと愛がまざって流れ落ちる、悲しみと愛が出会う、いばらで作られた貴い冠」(原詞訳)という歌詞は、私たちを十字架のもとに導きます。

神の御顔

作家として、ずっと痛みの問題と向き合ってきました。古傷がうずくかのように、何度も同じ疑問に引き戻されます。読者から寄せられる苦難の物語が、そうさせるのです。ある若い牧師から受けた電話を忘れることはできません。妻と赤ん坊の娘が、エイズに汚染された血液を輸血され、もう助からないといいます。彼は尋ねました。「どんな顔をして教会の青年たちに、神は愛なるお方だと言えるのでしょう。」

私たちの覆い

イエスを信じる信仰について話すとき、言葉の意味をきちんと説明せずに使ってしまうことがあります。例えば「義」という言葉です。私たちは、神は「義」であり、人を「義」とされると言いますが、これはとらえることが難しい概念です。

いのちの血

マリーアンは神と御子イエスを信じていましたが、なぜイエスが世の救いのために血を流さなければならなかったかが分かりませんでした。聖書は「律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる」と語ります(ヘブ9:22)。しかし、血できよめるなど、マリーアンにすれば気持ち悪いだけでした。

そんなある日、彼女は病院に緊急搬送されました。遺伝子疾患によって免疫システムが侵され、血液が攻撃されていると診断されました。マリーアンは救命室の中で、「血を失えば私は死ぬ。でも、イエスが血を流されたから私は生きていける」と思いました。すべてが腑に落ちました。血はいのちであること、神と和解するには聖なるいのちが必要だったと分かりました。彼女は痛みを感じながらも、平安に満たされました。

現在、マリーアンはすっかり回復して、自分の健康とイエスの犠牲を感謝しています。

ヘブル人への手紙9章は、旧約時代の血の儀式の意味と(16-22節)動物のいけにえを終わらせた、イエスの一回限りの犠牲(23-26節)について説明します。イエスは、自ら進んで私たちの罪を担い、血を流し、いけにえとなって死なれました。それで今、私たちは大胆に神の御前に出て行けます。私たちの身代わりになってくださったイエスに、どれほど感謝しても感謝し尽くすことはできません。